古事記神代の巻にみる生命観

神随(かむながら)まもり給へ さきはひ給へ

あまてらすの御心をいただきて 顕はしその御姿は さきくしみたまの御法(みのり)のまにまに いや栄へ成就せむとするは必定なり

 

訳:こころを己が内に向けるものこそ神魂との邂逅であり、自然と榮へ守られ導かれていく

生きているということは、現し世を観、こころに思い感じ入ることができるということ

目に見ゆるものすべてが、内なる世界観 善きも悪きも心から目に見えるよう具現化される


造化三神のアメノミナカヌシから相対的認識をさせていただく陰陽、人でいえば肉体と精神、内と外、上下左右など対局した形ある顕現された世を造り給うたカムミムスビとタカミムスビ。

その末裔であるイザナギ・イザナミの国生みによって中つ現し世は完成された。

豊葦原の中つくには、青人草の住まうところで形に執着する拘泥する、しかしながら諸行無常の因果律の大いに働く所であった。囚われ強きその心は、イザナミの逝かれた黄泉のくにである。

黄泉の国すなわち死者のくには、かたちの醜く朽ちたところであると解釈できる。黄泉はイザナミからツクヨミ、三種の世界の成立によって根の国となりスサノオに引き継がれていく。

 

黄泉のくにから生還したイザナギは、禊をして三貴神を誕生させる、高天原を治めるアマテラスオオカミ、中つくにを主宰するスサノオ、根の国(黄泉)を掌るツクヨミ。

この三種の世界はどこにあるのか。

人草はこころというものを介して、この顕し世を観ていることは申すまでもなく、すべての森羅万象のできごとの淵源はこ・こ・ろなのである。

 

現実に反応する自我心は荒魂、それを静観する清き御心は和魂、どちらも神から授かった分け神魂として人草に元々存在する最も尊き御霊で在らせられる。その存在に感謝することは人草の生得観念として認めるべきであろう。

そして、悪しきものを佳きものに、佳きものはさらに善いものに幸魂が乞い祈むことで、具現化された不思議な奇(串・櫛)なる世界を拝むことができるのである。

なんと、単純でありがたきこの世であろうか。

人草それぞれに内在するアマテラスさまとスサノオさまの御魂に感謝して、この世を生かさせていただきましょう。 ~次回は因果応報根の国のおはなし~